灰色の空が広がっていた。
その重たい空を、雲だけが絶えず流れていく。風は枝葉を揺らすが、時の匂いはない。
窓の外を一瞥したリウスは、意を決して扉の前に立った。
「――師匠、起きていますか」
返事はない。ため息をつき、断りを入れてから扉を押した。
箱や布が扉の向こうから抗ってくる。皿、紙切れ、よくわからない像。腐らず、埃も積もらない。
だが積み重なり、色のない世界で逆に存在感を放っている。
リウスが足元に目をやると踏み散らされた枯草が散らばっており、辿った先には高く積まれた布の山。
「師匠」
声を強めると、布団の山がもぞりと動き、ようやく声が返った。
「んっ……おはようリウスくん。 ひょっとして朝かな?」
「朝も夜も大きな差はありません。今は昼です」
「そっかあ」
淡黄色の羽毛に包まれた大きな翼。その間から、羽のような耳がのぞく。大英雄ヴェナスは、養子の声に笑って応じた。
「お言葉ですが師匠、“そっかあ”ではなく」
「あれ、今日は訓練じゃなかったよね?」
「ええ、訓練は明日ですが、この生活はさすがに……」
リウスは額に手を当てた。十にも満たない竜人の顔に、年齢以上の苦労が浮かぶ。
「片付けましょう」
「ここの世界なら腐らないから大丈夫だよ~、誰も来ないし」
「自分がいます」
リウスは枯草を摘まんで皿を積み、溜息をつく。
「起きないんですか」
「ボクが寝てる間に、世界は平和に回ってるからいいんだよ~」
「師匠が寝ていなくても、世界は回ります」
「ふふん、平和にってのが大事なんだよね」
「この部屋の平和も守ってください」
「そのうちね」
布の山を引き下ろすと、ヴェナスが滑り落ちてきた。
荒れ放題の部屋に似つかわしく乱れた栗色の髪越しに弟子と目が合ったヴェナスは、何かを思い出したように片手で受け身を取った。
「あ」
「おはようございます。どうされましたか、師匠」
「約束! みんなと会う約束!」
大きな翼を床に打ちつけて起き上がる。鳥肢がたわみ、次の瞬間、時間を無視した一歩で急加速し、リウスの目が追いつく前に扉を出ていた。
「急がないと! いま向こうは何時かな?」
「十四時です、師匠。食事は用意してあります」
「ほんと?! リウスくん、さすがだね!」
「ええ、自分で用意しないと食事がないですから」
リウスが皿を抱えて食堂に戻ると、ヴェナスはすでに野菜の煮込みを器に移し、匙を咥えていた。
この世界では時間がゆるやかに流れる。それでも、食べることは必要だった。
しかしながら、ヴェナスが買い置いた乾いたパンと生野菜だけの生活はリウスには堪えられなかった。
「おいしい! やっぱリウスくんのゴハンはサイコーだね!」
「本に書かれた通りに作っただけです。食事くらい座って食べてください」
「でも急がないと」
「こちらに居る分には、まだ数日先ですよ」
リウスは肩をすくめる。
「師匠は子供みたいですね」
「リウスくんが大人っぽいんだよ」
「光栄です……が、師匠はおいくつでしたっけ」
「数えたくない!」
「いくつであれ、床にゴミを積み上げてよい道理はありません」
「うん! ごめん!」
ヴェナスはパンを頬張りながら、にかっと笑った。
食事を終えると、慌ただしく支度が始まった。
リウスは増えた皿を洗いながら、背後の騒がしさに諦めを覚えた。
「リウスくーん、コンメネさんから預かった旗って?」
「廊下の青い箱に刺さっているやつでは?」
「ありがとー! やっぱリウスくんがいると助かるなあ!」
ヴェナスが廊下を何度も飛び交い、床に枯草のカケラを落としていく。
泡をすすぎながらリウスは深く息を吐いた。
「師匠、せめて枯草はまとめてください。腐らないとはいえ、見苦しいです」
「うん……でもリウスが片づけてくれるから安心しちゃうんだよね」
「褒めても無駄です」
「えー?」
リウスは手を止め、真っ直ぐに言った。
「師匠。自分が居なくなった後が、心配でならないんですよ」
「知ってるよ。でもリウスがいるとボクは安心するんだ」
ヴェナスの声は子供のようで、それでも真剣だった。
支度が整うころ、灰色の空に光が差した。雲の切れ間から、ほんの一瞬だけ青がのぞく。
ヴェナスは背嚢を背負い直し、突剣と楕円盾を構えた。
「じゃ、行ってくるね!」
足が動いた瞬間だった。時間を無視した一歩で急加速し、撃ち出されたようにヴェナスが空へ一直線に消えていく。
リウスはその背を見上げた。
散らかった部屋も、だらしない生活も変わらない。
だが、約束だけは決して外さない。
リウスが暫く空を見上げている間に、空を裂いてヴェナスが戻ってきた。
両腕いっぱいに荷物を抱え、空中で回転し翼を打って着地した。
「……師匠」
「ん? ただいま!」
リウスは一度目を閉じ、短く告げた。
「やっぱり、尊敬しています」
「えっえっ、どうしたの? リウスくんに尊敬された! これからもがんばろーっと!」
「……では、片づけから頑張っていただけますか」
ヴェナスの笑い声が風に混じり、灰色の空に響いた。