波の音は、どこにもなかった。
目を開くと、そこはまた知らない場所だった。
ひんやりとした空気が羽毛をくすぐるように流れた。しかし、いつもの海の香りも、どこにもなかった。それがロシュメルの胸に小さな棘を残す。彼女が天井を見上げると、誰が作ったのかもわからない、まっすぐに削られた木材が並んでいた。寝具は上等で、良く沈む。だから、背中も腰も痛い。
どこか遠くに飛ばすなら、せめて寝床くらいは統一してくれないと困る。
「ほれみろ、砂も泥もついてきた」
彼女は悪態をつきながら跳ね起きた。
身体にはりついた潮風を払い、ロシュメルは周囲を見渡した。部屋は客室のようだった。とりあえず鳥趾にはりついた砂を落として窓に向かうと、彼女は「マジかよ」と呟いた。窓の向こうに広がっていたのは、どこまでも続く雲の海だった。
潮のざわめきも、賑わう声も、むき出しの大地の感触すら、どこにもない。彼女にとって、この状況は苦痛だった。なるべく物音を立てながら、寝具から床へと砂を落とし、部屋を漁る。未知の世界ではまず探索から始めるべき、これまでに2度も転移を経験してきた彼女が学んできたことだった。
机の上に積まれた古めかしい本の前で、彼女は足を止めた。
無音無臭の世界に、ようやく馴染みのある世界が還ってくる。古い紙の香りに、懐かしい筆跡、共に調査した記憶。その昔、不注意でつけてしまったインクの滲み。多くの年月を、多くのヒトの手を渡り歩いてきたかのような古書を手に、ロシュメルはただ立ち尽くした。
周囲の探索のため、彼女は小部屋を出た。隙間なく組まれた木造の内装に圧倒されながら、通路を進んだ。廊下の先は円形の空間で、手すりのついた柵が下り階段を取り囲んでいる。外周部は、廊下の先に扉がひとつずつ見えるだけだった。
手近な扉に翼を掛ける。力を入れても、扉は微動だにしなかった。締め出されてしまった可能性はないかと、本のことを考えながら彼女は足早に元来た扉へと戻った。気配を伺うようにそっと羽でノブを押すと、音もなく扉は開き、先ほどの小部屋が現れた。
開くならいいんだ。
合点をつけて、ロシュメルは階段のところまで戻ってきた。
少しだけためらってから、足を踏み出す。階段を降りるにつれ、足元に広がる影がわずかに揺らめく。高い天井がさらに遠くなっていく。翼をたたみ直した彼女は、誰かに聞かれることを心の片隅で願いながら鼻歌を口ずさみ、重厚な扉を押し開けた。
広い。
大鎧竜の翼どころか、もう2~3頭転がしても余るほどの広さだ。何もない空間には窓がいくつか並び、そのうちのひとつは足元まで大きく開いている。そしてその全てに、どこまでも続く雲海が漂っている。そよかぜが小さな音を立てるだけの静寂が、石でできたこの空間を支配する。
ロシュメルは窓へと歩み寄った。翼を縁にかけて力を込めると、窓は何の抵抗もなく開いた。
出られる。
いや、本当に出られるか……?
眼下に広がるのは白の果て。海も、陸地の姿も見えない。時折、流れる雲が白に影を落とすだけだった。彼女は翼を広げ、窓の外へと差し出した。風を捉えることはできるだろう。しかし、滑空しかできない彼女にとって、その選択は二度とここへは戻って来られないことを意味していた。ロシュメルは逆の腕で腰のあたりを探った。もし行くなら、あの本だけは手放したくない。そうなれば、腰にしっかりと結び付けなければならない。それでも、もし海が広がっていたら、終わりだ。
ロシュメルは一つ息を吐いた。
決めた。行かない。
本のこともあるが、生活感のあるこの場所はきっと安全だろうという期待のほうが、空に身を投げるリスクに勝ったのだった。窓を閉じると、翼を払うように身を翻し、奥に佇む扉へと向かった。
ガチャリと扉が音を立て、少々じめっとした空気が出迎えてくる。ビビったら負け。こういう時こそ、堂々としているべきだ。鼻歌の続きを歌いながら、螺旋階段を降りていく。客室があるのだ、何もないわけはあるまい、彼女は計算していた。
しかし、階下には驚くほど何もなかった。城の尖塔についた兵士の詰所のような、薄暗くて円形の空間はこざっぱりとしていた。部屋がふたつほどあるが、そのどちらもが埃ひとつない空き部屋。下に降りる場所も見当たらない。そんなはずはない、とロシュメルはこの空間を3度、端から見て回った。
まだ見つけていない場所があるのでは。その可能性を思い浮かべたその時。
ガチャリと、上階の扉が開く音がした。
「ははあ、お前か! 大きくなったんだなあ!」
ロシュメルは翼をめいっぱい振り上げて、ばんばんと獣の背を叩いた。しかし、その内には恐怖が渦巻いている。その爪で、牙で襲われたら。翼を掴まれ、組み敷かれてしまったら。彼女は怯んでいる素振りを微塵にも見せず、作り笑いをリウスに見せた。相手が友好的である限りは、安全であってほしい。
リウスは段差の低い階段に腰掛け、足を組み替えた。その神妙な面持ちと仕草は、確かにロシュメルの記憶にある、幼少期の彼そのものであった。また別の異世界からやってきたリウスは、竜人たちの手で育てられた。より多くの世界を経験させたいという養父からの頼みで、ロシュメルは彼を数日預かったことがあったのだ。家族を持ちたかったという夢が再燃した機会だった。その記憶が引き出され、その夢がにわかに熱をもつ。
平和ボケしてる場合じゃない。
ロシュメルは翼で自分の頬をぼふりとはたいた。
目の前の獣が本当に、あの頃のチビスケであるならば、つまりここは元の世界から10年以上も未来ということになる。いや、それ以前に彼は、自分が過去から戻ってきたあとのことを喋ったのだ、辻褄が合わない。どうなっているんだ。仮にコイツは今、ウチを知るはずではなかったのに知ってしまった。そうしたら、コイツにとってのウチとの初対面はその時ではなく今になる。このパラドックスはどうなる?
「……あー、でっかくなるの早えんだなあ」
ロシュメルは諦めた。
「色々ありまして。時間軸が異なる世界、そういうことなのでしょうかね」
リウスも同じことを考えていたようだった。学者じみた口ぶりと妙に落ち着いた声が、このややこしい状況をよりややこしくさせる、とロシュメルは溜息をついた。
「……あー、それだよそれ。ウチもついさっきまで」
と、そこまで言いかけた時だった。
布がはためくような、形容しがたい物音が上階から響く。
思わず立ち上がる。獣もまた、反射的に身体を起こした。ふたまわりほど大きいそれがすぐ隣で動くと、圧倒されるような威圧感がある。やっぱりでけえ。でけえから怖えわ。
「聞こえました?」
リウスが尋ねる。
「……知り合いか?」
ロシュメルは質問で返した。リウスは顎髭に手をやり、小さく首を横に振った。
「――して、行ってみましょうか」