ヴェナス=ブロウフュートは、柔らかなベッドの上で目を覚ました。意識が覚醒するよりも早く、寝返りを中断して反射的に翼をはためかせる。ふわりと浮いた枕を抱えて着陸すると、ベッドの上に腰を下ろした。そのまま首を巡らせ、左右を見渡す。
部屋は静かだった。どこか懐かしい匂い、いぐさと新しい木の香りを彼は感じ取った。空っぽの棚も、彼にとっては癒やしだった。ヴェナスはもう一度ふわりと身体を投げ出し、白くて柔らかな寝具に頬を預けた。彼はこの場所が気に入った。
布団をかき寄せ、ヴェナスは大きく息を吸い込んだ。
うーん。ここは、おうち。
「そんなわけないじゃん!!」
バサリと布団を振り払うと、ヴェナスは弾むように立ち上がった。ついさっきまで、常識の通じない世界をいくつも越えてきたのだ。さすがにこんな罠に引っかかる自分ではない、と彼は誰に見られているわけでもないのに、翼の羽毛を膨らませて胸を張った。
ずっと居たくなるようにできている場所。ヴェナスはこの部屋をそう評価し、同じように捕らえられた者が他にいるかもしれないと考えた。
よーし、ボクが助けにいくんだ!
そして、彼の冒険が始まった。
扉を一瞥したヴェナスは、正規の出入口には目もくれずに窓を開け放った。爽やかな空気が流れ込む。翼をひと打ちして、停滞した小部屋のすみずみに風を巡らせる。
ヴェナスは跳ね上がって窓枠を掴むと、ためらうことなく空へと飛び出した。
外に広がっていたのは、彼の見知らぬ景色だった。飛び立った場所を振り返ると円柱が連なり、上にも下にも雲を突き抜けて続いている。石でできた塔で、一周りすると6つの窓が並んでいる。
塔から離れると、雲がぽっかりと浮かんでいるのだが、これがまた妙だった。絵に描かれたように、雲はぴくりとも動かない。ヴェナスが翼をひと打ちしても、雲は我関せずとそこに居座っている。
体当たりすら無視した雲を諦め、彼は塔から離れるように進んだ。すぐに雲の群れにぶつかるも、構わず突き進んだ。そして、雲が晴れる。そこには、天まで聳える塔が建っていた。開いた窓に近づいて、中を覗き込む。客室だった。棚は空っぽで、床には枕が落ちている。
ヴェナスは窓を背に、まっすぐ一気に飛び去った。見えてきた塔を回り込むと、窓がひとつだけ。開いている。棚、そして枕。
抜けかかっている羽を一枚抜き取り、机の上に落とす。風で巻き上げないようにそっと飛び立ち、羽に別れを告げた。しばらくの後、案の定彼はその羽に出迎えられてしまう。
つまり、この塔はどちらへ行ってもここに戻されてしまうらしい。
ならば、と彼は空を見上げた。
ヴェナスは翼に力を込め、一気に高度を上げた。高く、高く。途中、窓の配置が変わったような気がしたが、定期的に現れる開け放たれた窓がそれは気のせいであることを告げていた。少し息が上がった彼が窓枠を掴み、吹き込んだ風が羽を躍らせる。
それなら、下はどうだろうか。
ヴェナスは深く息を吸い込むと、窓枠を掴んだ手を離して空へと身を投げ出した。途端に身体が重力に引かれ、下へと落ちる。窓、窓、壁。窓、窓、壁。真っ逆さまに落ちながら、変わらない景色に彼はムッとしていた。だが、怒ったところで、この塔は一向に気にしてくれそうになかった。
目まぐるしく流れていく光景。その繰り返しに飽き始めた頃、ヴェナスの視界の端、石壁の窓の先に白い影がちらついた。
ヴェナスは空中で身体をひねり、翼を広げて落下の勢いを殺した。すぐに目を凝らすが、今見えている窓には誰の姿もなかった。どれほど上だっただろうか、ヴェナスは喜びを爆発させるように翼で空を打ち、頭上の雲海へと飛び込んだ。
「誰かー! ボクが助けにきたよ!」
声を掛けながら雲海を何度も突き抜ける。次に現れた窓の奥に、獣系竜人の姿があった。ヴェナスの姿を見た途端、その獣人は驚きとともに素早く窓を開けた。ヴェナスは鳥が巣穴へ飛び込みように、空でひと跳ねして石造りの部屋へと滑り込んだ。
「これはこれは、師匠ではありませんか!」
そう発して屈んだリウスに、ヴェナスは勢いよく飛びついた。
「よかった! 誰も居なかったから探してたんだよ!」
ふたりは慣れたように互いの髪をぐしゃぐしゃに撫で合った。はたから見ればおかしな光景なのだろう、ロシュメルは変なものでも見るような視線を送っている。
白黒の獣人種っぽい子から呼ばれた師匠という言葉の響きを反芻しながら、ヴェナスはもう一人の姿を探す。
「げ」
視線が合った途端、彼女は露骨に身を引いた。
「ロシュメルさん!」
「よりによって騎団長かよ…」
ヴェナスはリウスに抱きついたまま、背中の翼を広げてロシュメルを引き寄せようとした。ロシュメルは翼腕でそれをいなし、後ずさって躱す。
ヴェナスが撫で終わるのを待って、リウスは背筋を正すと、恭しく一礼した。
「ヴェナス殿、武器はないままで構いませんので、鷹突きの構えを拝見させて頂けませんか?」
その言葉に、ヴェナスは顔を輝かせた。
「ボクのことをすっごく良く知ってるんだね?! こうかな? そういえばオースティンが見当たらなくて探してるんだけどさ!」
構えまで知っているとは、よっぽどボクの熱心なファンなんだ!とヴェナスは大変に上機嫌だった。リウスは目を見開いてその動作を細部のひとつひとつまで観察する。そして、ロシュメルと目を合わせた。
「ありがとうございます、師匠。自分は雷禅リウスと申しまして、この雷禅の姓は貴方様から賜ったものでございます。改めて、平素より未来で大変お世話になっております」
片膝をついて深々と礼をするリウスを前に、ヴェナスは首を傾げた。
「んんん?」
そして、さらに首を傾ける。
「して、その、えっと、…」リウスは言葉を探して狼狽えていると、ロシュメルがその背を翼で叩いた。
「やめとけ、嬉しいのは分かるけど、それが伝わるほどコイツ賢くないぞ」
「んんん?」