「つまり、ボクは未来でキミと会ってるはずなんだね?」
小さく唸りながらその場を回っていたヴェナスは、ようやく状況を飲み込んだらしい。目を輝かせ、リウスをまっすぐ見つめた。しかし、リウスは慎重な表情を崩さなかった。
「ええ、鷹突きの構えで確認がとれました。そして、これはあくまで仮説なのですが――我々の他にも誰かしらが居る可能性があります。おそらく、上階に。」
短く息を吐き、リウスはこれまでの情報を整理してふたりに聞かせた。三人とも目を覚ましたのは上階であること、部屋は少なくとも六つはあること。
「うす、じゃあそれは任せた。ウチは下を調べる」
ロシュメルは翼を小さく揺らしながら答え、石壁にもたれかかった。その視線を受けたヴェナスは、リウスとロシュメルを見比べる。
「騎団長はそのへんでも飛んできて、誰か見つけたら捕まえといてくれ」
ロシュメルの助言に、ヴェナスはぱっと笑顔を見せた。
「任せて!外を飛んで誰かを探して来たらいいんだね?!」
リウスは僅かな抗議の視線をロシュメルに向けたが、ロシュメルは小さく肩をすくめてみせた。彼女にとって、ヴェナスがついてこなければあとはどうでもよいのだ。
「では、後程、またここで」
リウスが言葉を発したときにはすでに窓は開け放たれていた。残っていたロシュメルは弾みをつけて歩き出し、リウスに翼を振ると螺旋階段へと消えていった。
リウスは踏板の広い階段を静かに上がっていた。壁は冷たい石から柔らかな色の木材へと変わり、上階の円形空間が見えてくる。高い位置に取り付けられた窓から光が差し込み、ぼんやりとした明るさを保っていた。階段を取り囲む柵越しに、リウスは通路の様子を確かめた。柵の先にある円形の廊下と、放射状に伸びる廊下。そのひとつに、黒い影が落ちていた。
リウスは慎重に足音を殺しながら、素早く階段を駆け登った。床の軋みや振動を最小限に抑え、低い姿勢で廊下を進む。ぐったりと倒れた影を見て彼はざわつきを覚えたが、わずかに動く肩の起伏を確認して息をついた。そういえば、とリウス自身も廊下で目覚めたことを思い出した。他のふたりは部屋の中だったというのに、と思わず安堵を覚えながら、リウスは影へと歩み寄った。
それは見知らぬ黒髪の竜人だった。厚手の衣服も黒一色。板材の床が硬いのか、微かに顔をしかめながら身じろぎする。リウスはひと呼吸おいてから、その身体を揺すった。ほどなく薄目を開けたその竜人は、ぼんやりとした様子でリウスを見上げた。
「んん……あ、リウスさんじゃん」
リウスは見知らぬ竜人を前に、記憶を辿っていた。平静を装いながら丁寧に介抱し、上体を引き起こして壁に預けさせる。目を覚ました黒髪の竜人、日坂竜奈はその不自然さを感じ取ったのか、動揺していた。
「……あ、あの、すみ、ません……ここ、どこだか知りませんか」
「申し訳ありませんが、自分もついさっき、この空間で目を覚ましたばかりでして」
「そうでしたか……」
日坂は気まずそうに首を引いた。気心知れているはずの相手に、奇異の目を向けられるのは落ち着かなかった。リウスはしばらく悩んだのち、正直に話すことを決めたようだった。
「して、重ねて申し訳ありませんが――自分は、貴方の知る自分ではない可能性があります」
リウスの言葉が理解されるまでに、わずかばかりの間があった。
日坂の顔から、さっと血の気が引いていく。瞳を見開き、崩れ去る足元を改めるように周囲を見回した。
逃げる。そう察知したリウスが動いた。
しかしそれよりわずかに早く、日坂の身体は淡い闇に溶けていった。
黒。不定形。すなわち、魔族。擬態を疑い損ねた自身の不注意を咎めつつ、リウスは魔素を励起、展開した。
不幸中の幸いは、魔族が逃走を選択したことだ。しかし、魔族は無策で襲い掛かってくるのが相場である。擬態を含めて策を弄するともなれば、その強力さも伺い知れようというものである――と、リウスは推察していた。
扉を開けるか。しかし、扉に触れる隙を狙っている可能性がある。ならば破るか。展開した励起魔素を刃として構えたリウスは、慎重に扉へとにじり寄っていた。
一方の日坂は、完全にパニックに陥っていた。扉から少し離れた木製のキャビネットにしがみつき、振り返ることすらできなかった。
日坂は極度の人見知りだった。知らない人とは話せないし、自分を知らない人とは話せない。ただ先生に自分を忘れられてしまったことがショックで、慌てて逃げてしまったのだ。
背後の扉の先で、魔素がざわめいていることを日坂は感じ取っていた。
違う、敵じゃない。伝えなきゃ。
でも、どうやって言えば? 何を言えば? そもそも、聞いてもらえるのだろうか?
無音の空間であったおかげで、リウスは扉越しに嗚咽のような音を拾った。高度な知能を持った魔物が最初に退却を選択したのだ、こちらの油断を誘う可能性もある。世界には、悲鳴を真似することで獲物を呼び寄せる捕食者もいるのだと、彼は刃を構え直した。
だが、もし、これが真実であったなら。
「お名前を、お伺いしても?」
励起魔素の刃ひとふり分の間合いを置き、リウスは問いかけた。あくまで声色は穏やかで、好意的に。しかし、魔素の励起状態を察知できる者がほとんど居ないはずの世界で、幸か不幸か扉越しのふたりはそのわずかな例外だった。
扉の向こうでは、魔素たちがめまぐるしく駆け回っている。リウスの指先ひとつで、それは喜々として何もかもを切り裂くだろう。日坂は怯えていた。何度も見てきた灼天も、自分に向けられるのは格別の怖さだった。
「日坂、竜奈、です……」
緊張の中、かすれた声で日坂は答えた。たったそれだけの返事で、全身に押し寄せる疲労が日坂を襲う。膝が震え、支えを求めるように後ずさる。やがて部屋のさらに奥、ベッドの裏へと身を隠すように日坂は倒れ込んだ。
その名を聞いたリウスは、しばし考え込んでいた。その呼称が、彼の知る数少ないヒト族と一致していたからだ。しかし、この仮説を支持するのであれば、竜人であるはずがない。ましてや身体が溶けるはずがない。刃を握る手に、再び力を込める。
「日坂は姓ですか」
沈黙。
「はい……」
ようやく、短く返事があった。
「日坂竜導という名を、ご存知ですか」
再び、沈黙。
「……兄の名前です」
リウスはゆっくりと息を吐き、励起魔素を散らした。慎重に後ずさる。
そして部屋の奥の魔素の感知に全力を注いだ。部屋の奥、ヒトほどの大きさをした何かが動いた。
魔素の励起が消えたことに気づいた日坂は、ベッドの裏から頭を出した。リウスさんは私を攻撃しないでくれるのだろうか、と日坂は恐る恐る足を溶かし、身体の一部を扉の隙間へと滑り込ませた。視界をその末端へと移すと、リウスは扉を見つめ、神妙な面持ちで顎髭を弄っていた。
静寂。リウスは思考を積み重ね、日坂は観察に終始していた。やがてリウスは一つ息をつくと、ゆっくりと扉へと近づいた。リウスは扉の奥の魔素の動きへの集中を続け、日坂の身じろぎにより押しやられた空気中の魔素を感じ取った。扉の端のシミは、そんなリウスの姿を見上げていた。
爪の背で扉が3度、ノックされた。
「竜奈さんは、人間でございましたか」
リウスの問いは、正確だった。
「え、あ、まあ……そうでした」
一方的に姿が見え、暴れる励起魔素もいない。そのうえ的確な質問であったため、日坂はその問いに大きく安堵していた。
「自分の……ああ、自分、リウスのことをご存知だったわけですね?」
「ええ、はい……」
その次にリウスの口から語られたのは、時間軸が異なる可能性が高いという話だった。階下にはリウスが知る人物がいるが、彼らはリウスのことを知らない。それはおそらく、リウスが出会う前の彼らだから。
日坂は突拍子もない話にあっけにとられていたが、リウスの話を信じようと状況の把握に務めていた。
リウスが日坂を知らないのは、おそらく同じ理由だから。リウスにとって、日坂は未来からやってきたからということ。ここは謎の塔で、他のふたりと共に脱出のため協力していること、できれば日坂にも協力を依頼したいことをリウスは述べた。
日坂はすっかりと回復していた。日坂の知るリウスは、ラカセナ大学で教師として働き、自分に多くのことを教えてくれた。それよりも昔の彼だとしても、その説明の仕方や、見えるはずもないのに扉の先で一礼している仕草は彼そのものだった。恐怖の代わりに日坂を支配していたのは、あくまでいつも通りだったリウスに対して行ってしまった非礼の数々への申し訳なさだった。
こんなに伝えてくれたんだ、私も応えなきゃ。ためらいを振り払い、日坂は勢いよく扉を押し開ける。
急に迫ってきた扉に、リウスは咄嗟に首を引く。
「ごめんなさい! リウス先生、いつもありがとうございます!」
意を決して大きく頭を下げた日坂が、ゆっくりと目を開ける。首を傾けて、顔色を伺う。どうにか扉を躱していたリウスは、そのままの体勢で抗議の視線を送っていた。