第5話


日坂が弁解と謝罪を終えると、塔の内部は再び静寂に包まれた。

 リウスは階段の前で足を止め、窓から差し込む光を背に立っていた。その光が、背中の黒いふたりに淡い温もりを届ける。日坂の言葉が尽きるのを待って、彼は放射状に伸びる廊下の一方を指した。

「あの扉、自分がここに来た時には開いていませんでした」

 リウスは先程まで日坂に好きなだけ喋らせていたことをすっかり忘れ、日坂にそっと耳打ちした。

 扉はわずかに開き、その奥でなにかが揺れている。リウスは足音を殺して廊下を進み、日坂も恐る恐るそれに続いた。

 揺らめいていたのは、窓に張られた薄布だった。隙間からは青を基調とした客室が伺える。上等な家具がいくつか見える。高さのあるベッドの足元には場違いにも、ボロボロの布が落ちていた。それが竜人の足であることに気づくまで、いくらかの時間を要した。

 リウスは慎重に声をかけた。しかし、返答はない。日坂と顔を見合わせたリウスは、断りをいれて部屋へと踏み入れた。

 部屋の中央に、青髪の竜人が倒れていた。

 激しい争いがあったのか、衣服は擦り切れている。しかし、目に見える傷は見つからなかった。頭頂部の赤黒い髪も、血の滲みではないようだった。

「……ソウェイルさんだ」

 顔を覗き込むなり、日坂が呟いた。

「知っているのですか」

 すかさずリウスが尋ねると、日坂はどこか歯切れ悪く頷いた。

「ええ、まあ……でも、リウスさんとは仲が悪かったような……」

 その言葉に、彼に触れようとしていたリウスは慌てて手を引っ込めた。それは本当なのかとリウスは視線で日坂に問い、日坂は微妙な表情を浮かべながらも頷いた。

「……ソウェイルさん、不服かもしれませんが、リウスと申します。貴方についての記憶を自分は持ち合わせていないため、この関わり方でよいのかわかりませんが……お体如何でございますか」

 名前を読んでも、ソウェイルの焦点の合わない瞳は空を彷徨っていた。リウスは意見を求めるべく日坂の方を向いたが、静かに首を横に振るだけだった。

「……また、様子を見に来ますね」

 そう言い残し、リウスと日坂は部屋を後にした。

 ***

「やっぱり外は、どっちにいっても塔にもどってきちゃうみたい。雲がぴたっとしてて、どうやっても晴れないんだよね~」

 両手で日坂の手を握りしめ、ヴェナスがそう報告した。解放感溢れる石造りの広い空間で、日坂は人懐っこい騎団長に圧倒されていた。

「自分は、発見者が二名。こちらの日坂氏と、ソウェイル氏。ソウェイル氏は体調がすぐれないようで、上階の部屋におります」

 顎に生えた白い獣毛を束ねながらリウスが続いた。

「ふふん、ウチが一番、すげーもんを発見したみたいだな!」

 ロシュメルが、ずっと浮かべていた不適な笑みを深めた。

「水と食料だ。いけるかどうかは知らねぇけどな」

 リウスが目を見開く。現状、ここは逃れることができない、3層に分かれた塔の中だ。外へ出る手段がわからない今、いくら仲間を見つけても仲良く餓死の可能性すらある。

「……どの程度のものです?」

「見てみりゃわかる。まぁ、ついてこいよ」

 ロシュメルは翼を丸め、螺旋階段への扉を指す。

「あっ、おい騎団長。上の階に体調不良のやつがいるらしいぞ。看病してやるのはどうだ?」

「そうだね! ボクはそっち行かなきゃ! ソウェイル君だっけ? ボクが助けるんだー!」

 あっさりとヴェナスの排除を済ませると、ロシュメルはふたりを促し、階下へと向かった。

 螺旋階段を下りると、湿気が漂っている。窓は高い位置にあり、風の通りが悪い。薄暗い階下には、先ほどにはなかった麻袋が数段積まれている。ロシュメルはどうだと胸を張り、吊るされた羽飾りを揺らす。

「おお、大麦でございますね」

 袋を改めたリウスが声を上げる。謎の客室や設備の真新しさなど現状の不可解な点を並べながら、彼はてのひらで大麦を掬っては戻した。

「いけそうです」

「だろ? だけど見つかった場所が問題でよ」

 声を低くしたロシュメルに、リウスと日坂は息をのんだ。

 彼女に続いて、案内された小部屋を覗き込む。狭い部屋の中央には桶が置かれ、水がなみなみと張られていた。だが、ロシュメルが指したのはそこではない。

「メシ、ここにあったんだよ」

 彼女が指したのはもう少し手前、小部屋の入口の空間だった。積まれた袋はそれなりの容積がある。ロシュメルはすでにこの部屋を調べており、部屋に何もないことは最初に階段を下りたときにリウスも視認している。問題の所在がわからない日坂をよそに、ふたりは互いの顔と扉を見比べて唸っていた。

「さらに変なことがあってよ」

ロシュメルが翼を組んだ。

「水は、メシを運び出したら出てきたんだよ」

「…桶ごとですか?」

「そーなんだよ」

リウスは目を細め、桶を睨んだ。

「ロシュメルさん、どんな感じだったか、もう一度試して頂けますか」

「おうよ、こうだろ」

大麦の袋を持ち上げるように翼で空を掬い、ロシュメルは数歩歩く。

「そんで、こうで……こう」

扉を閉めたロシュメルは、一息ついてから再び開いた。首を傾け、リウスに確認を任せる。

「……どうだ?」

「変化はないようですね」

再び唸るふたりに、ようやく日坂が追いついた。

「穀物の袋も最初は無かったんですね?」

「そ。変だろ?」

「えっと、誰かが運んだのか、それとも、この塔へと移動してきたか……ですよね。リウスさんは魔素については調べました?」

「ええ、移動の痕跡は無いようです。未来では、何かしらの知見はあったりしませんか?」

「お、そーだよ未来人。なんかねーのか」

「さすがにそこまでは……」

短いやりとりの後、日坂がひねり出したのは猫を用いた思考実験だった。

「するとなんだ、未来じゃ動物を箱に入れてイジメるのか?」

「いえ、あくまでそういうイメージです。あの、猫って知りませんか。ちょっと謎めいてて、もしかしたら生き返りでもしそうだーって考えている人がいて。たぶんそれで猫だと思うんです」

脱線したふたりを制止したのはリウスだった。

「して――つまりは、全体を閉鎖系と仮定すれば因果関係に矛盾があるため、それを超える因果やゆらぎがこの空間に含まれていると仮定しなければならない、そういうことですよね?」

「えっ、えっと、リウスさんの話はちょっと私には難しいです」

「なんだ、ファンタジーなやつか?」

リウスの言葉から何かを察したらしいロシュメルに、日坂は素直に驚いた。

「ちょっとやってみましょう」

リウスは扉を閉めて背を向け、何事か唱えてから再び開けた。部屋の中身を先にふたりに見せ、続いて覗き込む。桶の前には、小ぶりな、透き通った物体が新たに増えていた。

「えっ、コップだ」

日坂が驚きの声を上げた。

「コップですね」

リウスが淡々と述べる。

「ファンタジーかよ」

ロシュメルが抗議の声を上げた。